心とは、精神とは。

ここでは、「心とは何か」ということにふれてみたいと思います。以下は「セミナー」で戸塚校長が公演された一部を編集したもの。拘置所内でのやりとりや、様々な実体験を元に心を語られており、大変楽しいものとなっていますので、最後までご一読されると面白いかと思います。

<司会>
よく「教育では、子供の心を大切にしなければならない」といういい方がされます。心は非常に重要なものとされているのに、では「心とは何か」というと、実は大変あやふやにしかとらえていない。  
たとえば「体罰は心に傷がつくからダメ」ということになっていますが、どうも分かったようで分からない・・・。そういう素朴なところを、戸塚校長からお話をいただきたいと思います。
(第38回木曜セミナーより)

   

教戒師にお灸
宗教家、特に仏教の人が、
「心と精神は違う。皆さんがいうのは精神であって、仏教でいうのは心です」
という言い方をしますが、そういっている坊さん自体がわかっているとはとても思えないです(笑)。

私が拘置所に3年間放り込まれていた時、「教戒師」というのに会ったことがあります。
罪人に教え諭してやるという仕事で、キリスト教もあるんですが、ちょっといじめてやろうと思ったものですから、仏教のほうを呼んでもらいました。  

真宗・東本願寺に所属する名古屋・東別院という所から坊さんがきました。丁度この会場ぐらいの広さの部屋に、そのエライお坊さんと私の2人だけです。ただし、私は凶悪犯だから看守が1人つきます。

襲いかかるといけないんでね(笑)。  

その坊さんが、
「ああ、あなたが戸塚さんですか、ご苦労さまです。じゃあ、お話させていただきます」
というから、「ちょっとお待ちなさい」といった。

今まで「お待ちなさい」なんていわれたことはないものですから、びっくりして、「何でしょうか」という。

「仏教というのは『空』(くう)を説く宗教ですか」と聞くと、「その通りです」という。  
「では、『空』の定義をしなさい」  
「どうしてですか」  
「あなたは『空』を説こうとしているわけでしょう」  
「その通りです」  
「だったら、当然、『空』とは何かを知っているはずでよね」  
「───そういうことになります…」  
「だから、まずその説明をしてください」  
すると、  「戸塚さん、『空』というのは非常に難しい概念でして…」 と言いだす。  
そこで、「それは嘘でしょう」いってやります。

そんなむづかしいものが流行るはずがない。誰にでも分かる簡単な概念だからこそ、仏教が世界三大宗教の1つになれたわけです。「それはあなたが分からないということでしかない。『空』というのはすごく簡単な概念だから、それをいいなさい」といったわけね。

「どうしてそんな質問をするんです」というので、
「あなたの話が聞くにたえるものかどうかを、まずテストしてるんだ。そのくらいのことが分からずに、今まで何をしてきたんです」とね。

すると「ここは私がしゃべる場であって、あなたが私に説教する場ではない」ときた(笑)。

「いいでしょう。あなたが分かっていないということはよく分かった。でも、東別院が分からないはずはないでしょう。東別院に帰って答えを出して、また来なさい。1週間あげます」と追い返すわけです、教戒師を(笑)。

横にいた看守は、ふだんからよく思っていなかったのでしょう、「ようやってくれた。大体あの坊主は…」と大喜びです(笑)。  

それで1週間、拘置所中が心待ちにしていました。ところが、来ない。

それで、電報を打ってやります。
「このウソツキ」と。
すると慌てて飛んで来て「私は嘘などいってない。あなたが1週間で来いといっただけで、私は来るとはいってない」という。
「まあ、それはいいとして、答えは出たのか」というと、「うーん…」と頭を抱えている。
「何という情けない人達ですか。よし、東別院には『空(くう)』を定義できないことは分かった。だけど、まさか東本願寺ができ ないわけはないでしょう。1ヶ月あげます。東本願寺の答えを出してらっしゃい」といって、それっきり来なかったです(笑)。

キーワードは種族保存
「カラスは魚です」といわれても、魚の定義とカラスの定義がはっきりしていなければ嘘とも本当ともいえません。精神や心も、まず定義を明確にしなければなりません。
ところが、こういう点が教育でも、あるいは宗教などでも非常に曖昧(あいまい)なんですね。

私が仰天したのは、拘置所に大きな心理学事典を差し入れてもらい、「精神」という項を引いてみた時のことです。無いんですね、これが。精神に関する学問体系なのに、精神の定義ができてないわけです。それで、心理学というのはかなりいい加減な学問じゃないだろうかと思うようになりました。
そういうものをいきなり読むと、本質がつかめなくなる恐れがあるから、自分としてやるべきことは、まず精神の定義を作ることだと思いました。 そこで、精神の定義を作って行きました。

結論は、「種族保存を目的とした情報処理」です。
それによって、35億年前に誕生した生命が我々まで維持されてきたわけです。社会の問題や子供の教育を考える時も、この「種族保存」が非常に重要なキーワードになります。これを理解してしまえば、あとは非常に簡単に事が運びます。

不快感を生む能力が大切
人間の行動には、 感覚→不快感→意思→行動・・・という順序がある。
この各過程に知=判断が働いているわけですね。感覚が入ってくると正しい判断によって、正しい感情(不快感)が生じる。そこでまた正しい判断により、正しい意思が出てくる。そして、その意思を正しく判断して、正しい行動が出てくるわけです。

この知、情、意の3つから成り立つものが精神なんです。つまり、精神というのは、種族保存にかなう行動を起こさせるための情報処理なのです。目的は正しい行動です。そして、目的を達成すれば、快感が湧く。そういうふうにできているわけです。

例えば、嫉妬という不快感。
試験を受けて、ライバルが90点で自分が80点なら、嫉妬が湧きます。これは怒りの変形ですから、相手より上に行こうとして、勉強します。嫉妬という感情が勉強という行動を起こさせるのです。その結果、自分が90点、彼が80点ならば目的達成、「やったー」という快感が湧いて幸せになります。

本当の幸福というものは、これだけの面倒で不快な過程を踏まないと生じないのです。 ところが、今の世の中は、幸福が勝手に沸き上がってくるようなことをいっている。

そこが間違いです。

大きな不快感を発生させる能力と、大きな快感を生む能力は一緒です。にもかかわらず、不快感を否定するから問題がおかしくなってくるんです。

精神にも光と影がある。
この前、伊勢神宮へ行ってきました。正宮をお参りして戻る時、「荒祭宮」と書いた所がある。
何だろうと思って、行ってみると、正宮よりはるかに小さな鳥居とお堂があって、近づけるんです。中へ入ったら、長持ちを小型にしたようなものがあって、開けてみると、
中に榊が1本と筒みたいなものがあった。何かなあと思っていたら、「もしもし、困りますよ」と声をかけられた。神聖なものやからね。  
「荒祭宮の意味が分からないので」というと、「これはお宅(戸塚ヨットスクール)と
一緒ですよ」といわれた。つまり、光には必ず影があるように、神様にも怖い部分というか、荒っぽい怒りとか力があって、そういう部分を併せ持たなければ神の役目はしない、とね。それで、伊勢神宮では、正宮が当然一番上で、荒祭宮が2番目だというんです。これは大変示唆に富んだ話だと思います。  

今、平和は認めるけど戦争は認めないなどと、馬鹿なことをいう。しかし、平和が正宮なら、戦争は荒祭宮です。力でもって平和を獲得するのです。こういう真理を知らねばなりません。と同時に、それを「お宅と一緒です」といった人、この人はただの守衛ですが、この人の方が、世間でいうエライ教育者なんかより、よっぽど物事が分かっているなと思いました。  

快感にしか目がいかず、不快感を無視するからおかしなことになるんです。

精神も進化する
それから次に重要なのが、進化論です。情報処理の仕方も進化するのです。大昔、まあ、34億年前として、DNAが入っただけの単細胞生物が、何かに当たる。すると「当たった」という原始的な感覚の情報が、DNAに到達します。このDNAが情報処理して、ホルモンを出します。このホルモンが細胞を動かして、「餌だから食え」という。

これが適応行動です。  

ある時、シャムの双生児みたいに2個の細胞がくっついた生物が現れると、競争原理によって、明らかに2個のやつが強い。ところが大変困ったことに、一方の細胞が何かに当たって、情報処理をして「餌だから食え」と命令しても、もう一方は動かない。これでは困るんで、もう1つのホルモンを出して、膜を通じて相手の細胞に入れます。それで2つが移動して餌を食べことができるようになります。  

このやり方で、細胞が100個になると、今度は連絡が悪くて非常にどんくさい多細胞生物ができてしまう。動きが鈍くて困るため、情報処理専門の細胞を作って、これにすべての細胞を結んじゃいます。これが情報処理専門の細胞、神経細胞です。

これがさらに進化すると、神経細胞ばかりが集まって、情報処理専門の器官を作る。これが脳です。  

人間はこの脳の新皮質という所があまりにも発達したもので、頭が良すぎるわけです。
頭のいいやつは、すぐずるいことを考える。それで本能と違う理性、逃げ道を作ります。さっき挙げた嫉妬の例では、本能のランクの怒りが理性のランクに上がって嫉妬となり、勉強という行動を続けさせる。そうすれば自分が進歩し、相手も傷つけないですから、種族保存に適うわけです。

本能にかなう理性が『空(くう)』、反するのが『我(が)』
ところが、人間というのは非常にずるいですから、相手を上回るという結果だけを手っとり早く得て、嫉妬という不快を取り除こうとします。 その結果が、相手を引きずり下ろすという行動になるのです。

一人でかなわなければ、よってたかって足を引っ張る。それで、相手が自分より下に見えれば、嫉妬が消えて快感が湧く ───そういう間違った使い方をします。

これが『我(が)』です。

本能どおりの正しい理性が『空』、本能に反する理性が『我』です。  

ですから坊さんが様々な修行をして必死になって『空』になろうとするのは、見失ってしまった自分の本能を探り出そうとしているわけです。

意識を1つのことにずーっと集中し、他のことに理性が働かなくなるようにします。そうすると、本能の情報処理を知ることができるから、それを改めて理性に変えればよろしい。これが座禅です。  

さまざまなことわざや言い伝えの中にも、本能を発見する方法が出てきます。私がいつも例に出すのは「託孤寄命」というやつですよね。もし自分が死ぬとしたら、孤児となる自分の子供を誰に預けるだろうかというふうに考えます。その時、ある人物が答えに出てきたら、自分の本能はその人を一番信頼しているんだ、ということになります。これが本能を知る1つの方法ですね。

ほかにも、ナントカの振り子というのがあって、糸に小さな重りをつけて、「イエスは縦」、「ノーは横」に振れるという具合に勝手に決めるんです。そして、いろいろなものを試してみる。

「私は男ですか」といって、じーっと持っていると、本当に縦にふれてくるんです。
「私は女ですか」というと、だんだん横にふれるんです。いろいろな質問についても、答えがちゃんと出てきます。いわゆる「コックリさん」みたいですけれど、超能力ではない。これは、実は自分で動かしているわけでして、普段、意識にのぼってこない、自分の本能を知る方法の1つなのです。

情緒障害は狂うはずのない本能が狂っている  
仏教で″心″という場合、どうもこうした本能のことを指しているようです。いろいろな仏教の本に、「これは精神じゃない、心だ」と書いてある。その心の内容とは、要するに『空』のことです。彼らもよくわからずに、書いてあるけれども、それは、当然、仏教の場合は『空』ということになってきます。そこで非常に大事なことは、本能というものが、長い進化の過程でプログラムされてきた行動様式だから、変えることができないとうことです。理性はかえられても本能は変わらない。
ところが、情緒障害という問題では、狂うはずのない本能が狂っている事態に直面する。そこで、狂うはずのないものが狂うには何か原因がある、それを探ってやろうと考えるわけです。  

我々はトレーニングの理論を逆に使って、能力が低下するから本能が狂うという結論を出したわけですが、それがおそらく間違っていないと思うのは、対人恐怖症や強迫神経症の症状を、簡単に直すことができるからです。これをみても、脳の機能低下がそういう症状の原因であるということがいえると思うんです。  

さらに、もっと下の方の下意識というものが狂っている例もあります。
膝蓋腱反射が出なかったり、瞳孔が縮まらなかったり、免疫が狂ったり、体温が低下しっぱなしだったりという、そういう脳幹で行われる情報処理が既におかしくなっている。それらがヨット訓練で直るならば、癌も直るだろうということで、取り組んだわけです。結果は上々です。

教師全員で子供を殴れ  
ということで、心というのは、そういうふうに理解したらどうでしょう。精神という場合、仏教でいう『空(くう)』と『我(が)』の我まで含まれている。心というのは、精神から『我』を取り除いたものである、というふうにいえると思います。精神そのものが種族保存のためにあるんだから、我で判断すると、種族保存にかなわない。

一番恐いのがやっぱり教育ですね。

子供に対して心と裏腹なことをいうのは、人類を滅ぼそうとするとんでもないやつ
だよね。

ところが、マスコミの世界では、彼らの方が正しい。暴れまわる子供を見たら、誰だって憎らしいと思うし、怒りがわいてくる。その怒りが子供を正しい方向に教育しようとする行動を生むのです。それさえ間違っているというのでは、手の施しようはないわけで、今の学校教育は恐るべき状態にあると思います。彼らは、叱られる子供が犠牲になっていると勘違いしてる。

しかし、そうじゃない。

叱られずに育って、一人前の大人になれなかった場合、その子供たちが犠牲になっているというべきでしょうね。 日本のマスコミは、何もわかってないくせに平気で意見を述べますが、そんなものに負けるやつが悪い。

先生がマスコミに負けてるのに、子供に頑張れとは何事ですか。それから、いろいろな報道で、一番腹が立つのが教育委員会ですよね。何か事件が起こると、教育長なんかが先生を庇(かば)わずに、むしろ攻撃するようなことをいう。教育長の役目は、第一義的には先生を庇うことじゃないですか。先生を庇えずに何が教育長や。
そんな人間が団体の長になる資格なんかないですよ。自分が悪かったというべきですよね、教育長が。

「これからはちゃんとやるよう先生を指導するから、今回は許してくれ」と。
それを自分が悪いとは一言もいわずに、あの先生が悪い、この先生が悪い、ばっかり。
教育現場がそんな状態では、子供に四の五のいうことなどできるわけがないじゃないですか。  

以前、百メートル競争で(負ける子がかわいそうだから?)手をつないでゴールイン… あれは何事ですか。あんなことをやったのは日教組じゃないですか。
「子供を殴るとクビになる」というんなら、先生が一斉に子供を殴って全員でクビにしてもらえばいいんです。そんな団結もできずに、子供に説教するだけのものはない。現場が弱すぎますよ。

弱虫の文化を子どもは継承しない  
動物行動学を開拓したローレンツが本当に素晴らしいなと思うのは、
「弱いものが持っている文化を継承しようとする子供など一人もいない」 と書いてあることです。

大人が強いから自分達が保護されている。だからその文化は正しい、と子供は判断するのです。でも、今の世の中は逆ですから、そういう本能的な要求は全く起きません。
素晴らしい社会、素晴らしい文化だから継承しようとするんであって、どうでもいいようなものは捨てようとします。大人がまず子供を保護してやれる強さが なければ、子供に何を要求したって無理です。

子供が犠牲者であるというのは、そういうことなんです。

子供が殴られるとか、管理教育でぎゅうぎゅうの目にあわされるとか、受験戦争でいじめられるとか、そんなことじゃないんです。もっとはるかに低い次元の段階、本能のランクにおけることが大事なんです。  

子供を守ってやることができずに、何が大人ですか。
日本の男は弱すぎますよ。

 


()ホームケア彦島
代表取締役 長富伊佐穂

オーシャンアセットマネジメント(株)
CIO 久富 哲也

   

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