原因は本能の低下
「酒鬼薔薇事件は、特殊な子供が起こした特殊な事件」と誰しも考えたいでしょう。
しかし、そうではありません。
登校拒否、非行、いじめっこ(いじめられる子も)、暴走族、援助交際、シンナー、自殺・自殺志向、盗み、ヤンキー座り、茶髪にピアス…。
我々のまわりにいくらでもいて、今や当たり前になってしまった若者たちと、酒鬼薔薇君にはある共通点があるからです。
それは、本能の低下(=基礎精神力の不足)です。そして、これこそが今回の事件の根本原因です。 酒鬼薔薇の予備軍たち 戸塚ヨットスクールがこれまで扱って来た子供の中にも、ああいうタイプの子はたくさんいました。一例をお知らせしましょう。
少年A(当時中3)
ほんの少しの努力を要求されたり、あるいは自分に都合の悪いことがあると事件を起こす子。自分のお祖母さんを殺そうとするなど、何度も殺人未遂をやり、戸塚ヨットスクールにやってきました。
来てすぐにいろいろな事件を起こしました。
自分はこんな所(合宿所)に居たくない→警察沙汰になるような事件が起きれば出られる という理屈で放火と殺人未遂(他の訓練生の首を締める)に及んだのです。 そして「僕は14歳だから人を殺しても罪にならない」とうそぶいていました。
少年B(19歳)
父親を殺して保険金1億円を手に入れようとした子。 大学ノート2冊にその計画がびっしり書き込まれていた(相手が奥の部屋に逃げたらこう、2階へ逃げたらこう、もし警察に見つかったらこうして言い訳する、という具合で、本人としては大まじめで綿密な計画のつもり)。が、実行は失敗。警察・裁判沙汰になりました。
しかし、公判ではスカッと明るい笑顔できっぱり否定。裁判所は彼の言葉を信じてしまいました。驚いた両親は裁判官を訴えましたが、とりあってもらえませんでした…。
少年C(25歳)
実力はないくせに名誉欲が強く、弱い者の上に立とうとする子(?)。
弱い子をいじめてみたり、逆に、やけに弱い子の面倒をみたり、弱い子ばかりを集めて説教したりします。当然、同年代の子供からは総スカンを食らい、女の子にも嫌われます。このタイプの子が、最近増えています。
少年D(小6)
成績は中の上だが、精神的には弱い子。自分の精神的弱さを克服しようと、肉体的な強さにあこがれるタイプです。
行動力のある子の場合、武道を習ったりします。そこでちゃんとやれば精神的に強くなるきっかけになるのですが、いい加減にしかやりません。そして、生半可で危険な技を弱い子相手に仕掛けたりします。
また、「武器」が好きです(包丁、金属バット、ヌンチャク(特に多い)、ナイフ、
ボウガン、パチンコなど)。
行動しないタイプの子の場合は、プロレスを見たり、格闘技ゲームに夢中になったりします。酒鬼薔薇君は、こういう子供たちの延長線上にいるのです。
間違った理性と弱い本能
人間は、持って生まれた本能(ハードウエア=「あるもの」)と、生まれてからのしつけや教育によって造り上げられる理性(ソフトウエア=「つくるもの」)とで出来ています。
一般に、本能は野蛮で低級なもの、理性は気高く高級なもの、と見なされます。しかし、事実はまったく逆で、人間がたかだか十数年でこしらえた理性などより、大自然の中で数十億年かけて磨かれた知恵である本能のほうが正しいのです。 「人間が人間を守ろうとする無意識の衝動」これは人間ならば誰でも生まれながらに持っている本能です。
この本能が正常に働いてさえいれば、(強い恐怖などの不快感がブレーキとなって)
人は殺せないものです。
ところが、この本能が弱くなっていると、ちょっとした理由で、あるいはこれといった理由もなしに、人が殺せてしまいます。
酒鬼薔薇君は、人間性の土台である本能(ハードウエア)が「普通の現代っ子と同じように」弱くなっていて、その上に、間違った理性(ソフトウエア)が築かれたために、あのような事件を起こしたと考えられます。
マスコミがいう所の「ホラービデオの真似をした」、「ひどく叱られたことへの復讐」、「体罰で性格が曲がった…」、という議論は、現象を良く説明していますし、受け入れやすく、正解でもあります。
しかし、土台となる本能の低下を無視しているので、それは偶然の正解でしかなく、従って、彼らに酒鬼薔薇君を直すことはできません。間違った理性が自然に消えることはない酒鬼薔薇君を少年院に送ってもすぐに出てきてしまうから、もっと長く入れるように少年法を改正すべきだとか、少年法の適用年齢を下げて懲役刑を課せられるようにすべきだとか、議論されています。
しかし、一番大切なのは「どうしたら彼を正常化できるか」、ということではないでしょうか。彼を正常に戻す方法があれば、そのエッセンスを教育の中に組み込んで、同じような事件を引き起こす可能性を、未然に防ぐことができるようになるわけです。さて、今、問題なのは、酒鬼薔薇君の間違った理性と弱い本能をどう矯正するかということですが、間違った理性の側から手をつけるのは容易ではありません。
なぜなら人間のソフトウエア(=理性、技術、習慣、クセ)は、一度出来上がってしまうと、自然に消えることはないからです。
子供の頃、自転車に乗る技術(ソフトウエア)を身につけると20年経っても乗ることができます。同じように、間違った理性、悪い癖に染まると、それがいつまでも残ってしまいます。カウンセラーがいうように「ほうっておいて」も無くなることは決してないのです。この間違ったソフトウエアを消すには、より強く、大きく、正しいソフトウエアで悪いソフトウエアを抑え込んでしまうしか手がありません。しかし、それには大変な手間と時間がかかります。
まして、酒鬼薔薇君のようなケースは、非常に難しいものがあります。沢山の問題児を扱った経験のある我々のような所でなければできませんし、それでも大変です。
本能を強くして悪い理性を抑える
比較的簡単で、現実的で、効果の大きな方法がひとつだけあります。
それは、弱くなった本能を強くし、
本能(ハードウエア)の側から悪い理性(ソフトウエア)を抑え込んで行く方法です。
我々のいう「脳幹トレーニング」です。
このトレーニングを続ければ、酒鬼薔薇君は変わってきます。
徐々に、後悔し、反省し、そして心から謝罪することができるようになるでしょう。
彼の脳幹の機能が本来の能力まで回復すると、本能が正常に働きだし、「罪の意識」という感情を造出させるようになるからです。
私たちが、十数年間ずっと訴え続けているのは、この本能を強くするメカニズムが今の教育に欠けており、それが教育荒廃を引き起こしているのだ、ということなのです。
戸塚ヨットスクール校長 戸塚 宏
本当の人権と法の前の平等を守れ!
今回の事件は、教育荒廃の真の原因が本能の狂いによる文明病であることを最も無惨な形で露呈させました。
と同時に、日本の社会に本当の人権意識が根付いていないことも露呈させました。
司法当局は、容疑者の少年の顔写真を「フォーカス」が掲載したのは人権侵害であるといい、自分たちが法の番人であるかのような顔をしています。
けれども、少年の人権を本当に尊重したいのなら、まず取り調べに弁護士を立ち会わせるべきです。こんな基本的な権利さえ守ろうとしない日本の司法に人権を云々する資格などありません。
そもそも、検察官が、脅し、すかし、誘導によって、自分たちに都合の良い調書を密室で作り上げ、裁判所がそれを証拠として採用する、などという暗黒裁判が平気で行われているのは、先進国(?)では日本だけです。
そういうことに何の疑問も示さないマスコミや国民がいるのも、やはり日本だけです。
取り調べに弁護士を同席させ、さらにビデオでその状況を記録するのが、法治国家における人権尊重の第一歩でなければなりません。
顔写真や氏名といえば、第一勧銀と野村証券の総会屋を仲介したという大物(元出版社経営)の名前や顔写真を、マスコミはなぜ公表しないのでしょう。少年ではないはずです。
少なくとも、匿名にしてこの大物の「人権」を守ることが、国民の「知る権利」に勝る
ものである理由を明らかにすべきです。
また、公務員が事件を起こしても、ほとんどの場合、氏名や写真が公表されません。これもおかしなことです。
特に、悪いことをしたのが警察官や裁判官の場合は、相当あくどいことをやっても写真が公表されませんし、起訴猶予や不起訴処分になってしまいます。もし起訴されたとしても、判決の段階で「反省し、すでに社会的制裁を受けている」とか何とかいって執行猶予です。まして、検察官となると…。
検察官だって人間ですから、ノイローゼで万引きしたり、出来心で痴漢をしたり、公金横領などの不祥事を起こす人がいるはずですが、そういう話は全く聞きません。
どこかでもみ消し工作が行われているに違いないのです。
こういうことこそが差別であり、人権無視であり、法の前の平等を踏みにじるものだと思います。
コーチ 東 秀一
中学生が先生をナィフで刺す、銃で撃つ、警官を襲う、高校生が級友に包丁で切りつける……近年、少年たちの凶行が続発しています。多くの人は"犯人"が普通の少年であることに驚いていますが、私には少しも意外ではありません。
以前の神戸の事件のときから、"酒鬼薔薇聖斗"は日本全国どこにでもいると唱えてきたからです。酒鬼薔薇」君の顔には四つの大きな特徴があり、それは現代の多くの少年たちに共通したものなのです。そのことについては、のちほどじっくり述べたいと思います。
いま事件を起こしているのは、弱い子どもたちです。「非行」と「不良」は、同じように反社会的な行為なのですが、それを起こす理由は正反対。弱いからやるのが非行で、昔の不良たちは強かった。不良は利益を求めてやるもの、非行が求めているものは親友です。しかし、「酒鬼薔薇」君以来の少年たちは非行の枠にさえ入れない連中。孤立してしまっている子どもたちです。
大人しくて、いい子というタイプ、この子たちの"反乱"の解決策は、子どもを強くすることです。それ以外には、ありません。それは簡単なことです。その方法についても、後述しましょう。 あらかじめ一言触れておけぱ、次のようなことです。
人間は必ず攻撃衝動がどんどん溜まってくる生き物。それを行動に転化することで、発散します。攻撃本能は、正しい行動を誘発するためにあるのです。ところが、最近の子どもたちには行動がありません。行動のうえで、何かに立ち向かい、困難を乗り切るという経験をする機会がないのです。そこで、自分たちのなかに溜まったものを、まず校内暴力という形で発散しだしました。
それを管理教育で抑えつけたら、今度はイジメになった。そのイジメをみんなで押さえ込んだら、また校内暴力が復活。そして、非行少年にさえなれない連中は、その溜まったものを、「酒鬼薔薇」君やナイフ少年のように、いろいろな形で吐き出し始めているのです。
あえて言えば「爬虫類に近い顔」
神戸の少年「酒鬼薔薇」君の顔には四つの大きな特徴があります。私は、彼の顔写真が掲載されているという写真週刊誌を、発売を待ちかねるようにして入手しました。
特徴の第一。
目がちょっと吊り上がっている。これは父親の弱さを表しています。人間という動物はオスが子どもを守るもの。その父親が弱くて、自分を守ってくれそうにない。へタをすると自分は殺されるぞという動物的な恐怖心、不安がある。そういう子どもは、いつも目を吊り上げているのです。
二番目。
口が「へ」の字である点。子どもというのは、ふつうはロの端を上に向けているもの。ところが、「酒鬼薔薇」少年は、水平よりさらに下がっています。これは本来、意志の強さを示すものですが、彼の場合は我の強さになっています。
三つ目は、ロが少し尖っている点。
これは、物事を全部他人のせいにすることを意味します。うまくいかないことについて、いつも文句を言っている姿です。
次に、顔全体に表情がないという点が、第四の特徴。
表情のなさというのは、脳の弱さを表しています。ハードウエアとしての脳が弱い。脳細胞の機能が低下しているのです。
私の主宰する「戸塚ヨットスクール」の生徒の多くも、入ってきた当初は、これとソックリな顔をしています。表情がなく、あえて言えば、人間になっていない顔。爬中類に近い顔です。
生徒たちについては初めてスクールに来たときに写真を撮っているので、それを見れば、「酒鬼薔薇」君との共通点がよく分かります。
私が彼の顔写真を見たいと思った大きな理由もそこにあったのです。
第一の特徴である目が吊り上がっている点。これはすでに指摘したように、その子どもを守るべきオスの弱さを表しています。だから、私のスクールに来れば、アッというまに目は下がります。強い男がいて、そのもとに保護されているということが分かったら、もう吊り上げている必要がなくなるからです。
例えぱ、スクールでは、言うことをきかず暴れ回る幼児に対して、最初に、体が二、三メートル吹っ飛ぶぐらい本気でバーンと叩きます。すると、初めは声をあげて泣いている子どもも、そのうち数分もすれば、必ず私やコーチのすぐ横にピタッとくっつくようにして座っています。
このオスは自分のことを本当で気にかけてくれている、しかも強いからそばにいれば大丈夫…と思うからです。
たちまち目が下がります。
4つの特徴のなかで、いちばん問題なのは、最後の「脳細胞の機能が低下している」という点。
これを直して、表情を出してやれば、神戸の少年にしても、あのような「事件」は
もう起こさなくなると、私は断言できます。
そのためには、「本能」を養い、「人間性」を育てることです。このことについては、あとでじっくり述べなければなりません。
ところで、「酒鬼薔薇」君の顔の四つの特徴は、何も彼やスクールの生徒たちだけの特殊なものではありません。
むしろ、現代では、ごく普通の顔と言うべきものです。
そのへんにいる子どもたちも、みな同じょうな顔をしています。"酒鬼薔薇聖斗"はどこにでもいるのです。
なぜなら、それは戦後の民主主義教育が作りだした顔だからです。そのことを多くの人が知るためにも、少年の顔写真はむしろ全国に積極的に公開すべきだと私は考えています。戦後教育によって失ったものが、いまの子どもたちの顔に表れてしまっている。
だから、その失ったものを補充してあげれぱ、「酒鬼薔薇」君も立ち直ります。
しかし、医療少年院では、けっして直りません。神戸家庭裁判所で下された審判に基づいて、先日、少年は関東医療少年院
(東京都府中市)に収容されましたが、彼の"問題点"は、そこでの精神科医による治療やカウンセリングで治るものではありません。
それどころか、へタをすれば本物の「精神分裂症」になる恐れさえあります。精神科医は薬を使いますが、脳の機能が低下している人間は、その薬で本当に分裂症になってしまうことがあるからです。
いまの日本には、分裂症の患者数が異常に多いといわざるをえません。その病気が自然に発生する確率、つまり十万人に何人というパーセンテージを、日本だけが大幅に上回っているのです。その原因の一つに誤診があるかもしれません。
分裂症でないのに、そう診断しているというケースもたしかにあるでしょう。しかし、もう一つの大きな原因は、先に述べたように、薬によって人為的に作られてしまっているということ。
うちのスクールにも、そういう人が来ています。単なる神経症なのに、精神科に放り込まれて、薬で分裂症になってしまったケースです。
虚弱になっている「脳」が問題だ
ここで、「酒鬼薔薇」君の顔の四つの特徴をもう一度掲げて、それが「戦後の民主主義教育によって失われたものが表れた顔だという点を、少し詳しく検証していきましょう。
目が吊り上がっている。これは、不安感の表れ。戦後の日本が父権を失ったということです。
たとえば「いじめ」「体罰」というのは、本来は人間が育っていくうえで欠くべからざるメカニズムとして必要なものです。
ところが、戦後民主主義教育は、「いじめは、けしからん」「体罰は、いかん」というふうにしてしまっています。ここが問題。
戦後教育の大きな欠陥です。「臭いものにフタ」をするだけで、何のために「いじめ」が人間のなかに存在するのか、なぜ叩くことが必要かということが、まったく考えられなくなってしまいました。
その延長線上に「酒鬼薔薇」君、あるいはナイフ少年たちがいるのです。
教育界にしてもマスコミにしても、自由だとか平等だとか人権だとかを、ちゃんと中身が分からないままに、ありがたい神様のようにふりまわしているだけ。その挙げ句、「だから、いじめはいかん」と、都合のいい結論に結びつける。そもそも、民主主義とは何かが分かっていない。だから、よく似た日本の制度を持ち出す。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず」です。あれは平等主義。
二つは相反するもので、平等主義なら民主主義は要りません。二番目の「口がへの字だ」という点。これは彼の我の強さを表していますが、自分が駄目だということが分からないから、我の強さが出るのです。
これをひっくりかえして「お前は駄目なんだ」「お前は最低の人間なんだ」ということを徹底して分からせることが大切。それが分かれば、自分が伸びなければならないという意識を持ちます。
子どもを安易に認めてしまうことを止めれば、子どもは伸びてくるのです。ところが「お前は十分いい子だ」「お前は悪くない」と認めてしまうと、もう伸びる必要がないということになってしまいます。子どもは本来、勝手に進歩するのです。
しかし、そのためには、子どものなかに進歩する理由が要ります。
その理由は「俺は駄目だ」ということ。
「駄目だから進歩しなくては」となるのです。それなのに、戦後の教育は、「お前は、いいぞ」と言ってきた。「お前は立派だ」「お前は問題ない」と、みんなが、そう言ってきた。
第三の特徴である、唇が尖っている点も、これと同様のことを表しています。まずいことは全部、他人の責任にするという人間に育ってしまったのです。子どもの自由や人権を尊重しなければならないという態度で大人が接してきたので、子どもたちは嫌なことはやらず、自分勝手に好きなようにふるまうようになり、現在のような状況になっているのです。
そして、第四の、顔に表情がないのも、彼の世界に不快感がなくなったということ。
大人がみんなで、彼の子ども時代に、彼の不快感を取り除いてしまったのです。お前はいい子だし、いい子は、そういう危ないことをして遊びませんという教育、社会のなかで「俺は駄目だ」と意識できる場面から隔離され、伸びる必要性を取り上げられてしまってきたのです。
そうした誤った過保護状態が、原始的な、しかし、だからこそ最も大切な脳である脳幹を虚弱化させてしまい、その結果、さまざまな問題行動を起こすようになるのです。
「酒鬼薔薇」君やナイフ少年のようなケースから、登校拒否、家庭内暴力、校内暴力、
先生を尊敬しない態度(これはつまり、先生を尊敬する力がなくなっているということ)
など、さまざま。しかし、原因はみな同じ。脳が虚弱になっており、子どものまま成長してないということです。
その最たるものが、うちのスクールに来ています。
うちに来る人間の特徴は、幼児だということです。少年少女、十代、二十代はもちろん、三十歳になっても四十歳になっても幼児のままの人が来ます(ふだんは、それなりの年齢に見えても、水のかけっこなど自分の世界に没頭するときに幼児の姿をさらします)。
自分で伸びることを止めてしまった人たち。成長する理由が与えられなかった人々です。
本来は「大人のほうが優れているから、大人になろう」とする。大人のほうがいい思いができるから、大人になろうとする。幼児では駄目だから大人になろうとする。
ところが、大人も子どもも平等だといってしまったのが戦後民主主義教育。だから、成長しなくなってしまったのです。本来はもっと素晴らしいものになれるはずなのに、子ども時代に認められてしまうので、伸びが途中で止まってしまうのです。
家庭内暴力の子どもにしろ登校拒否児童にしろ、本当はそういう自分が
嫌でたまらないのです。人間として、理想像を求めて、そこに到達したいという気持ちを持っています。それが実現できないために苦悩している姿・・・それが家庭内暴力や登校拒否なのです。
「非行」の子どもも苦悩しているのです。
だから、私のスクールで体験するように、自分が「真人間」になれる
(正確には「真子ども」になれる)という実感が掴めれば、それに向かって
頑張り始めるのです。
成績が「中の上」がいちばん危ない
以上のような意味で、「酒鬼薔薇」君はけっして特殊なケースではありません。若者全体の、人間としてのレベルが下がっているのです。そして、ある一定の線より下に沈んだ者たちが、問題児として「事件」を起こします。だから、頂上のほうにいる一部を除いて、現代の子どもたち全員が"酒鬼薔薇聖斗"になる可能性を秘めていると言うべきでしょう。戦後民主主義教育は、とんでもないことをやったのです。
街を歩いていても、ス夕イルや顔は整っているのに、目つきがとても下品な
女の子を見かけることが珍しくありません。もちろん、男の子にしても同じ。若者たちの顔のなかに、人間として成長の止まった顔が多いと感じているのは、
私だけではないはずです。
「酒鬼薔薇」君の場合は、ある意味で非常に"世を拗ねた犯罪"です。
その種の行動に走るのは、成績が「中の上」あるいは「上の下」程度の子どもに多いです。小学校の頃の「中の上」というのは、みんなより俺のほうが上だという思いを、おおよそ満たせます。
「お前は立派な人間だ。そのままでいい」と褒められ続けてきた本人は、その証が欲しいもの。幸いにして学校の成績が「中の上」なら、「俺は立派な人間だ」と納得できる。ところが、中学校に進んで成績が「並」に落ちていくと、自分の優位性を自覚できなくなる。そこで慌てるのです。
本来なら、そこで努力して、自分で伸びようとするもの。頑張って、然るべきものを自分自身で獲得しようと努めるわけです。ところが、そうするだけの「パワー」がもうなくなっている。小学校の時代に、自分で伸びようとすることをしてこなかったからです。
成績が次第に下がって優位を保てる相手がどんどん少なくなっていくと、今度は別のことで人目を惹こうとする。
それゆえ、まず、「失敗をしないようにする」行動が目につくようになります。たとえば、人によっては、スポーツをいっさいやらないようになる。結果がその場ではっきり出てしまうスポーツは、自分の惨めさをさらしてしまう恐れがあるからです。
そして、次に、「酒鬼薔薇」君のような動物へのイタズラ、虐待など、他人にできそうもない行動に走る。
「お前ら、できんやろ。俺はできるゾ。立派だろう」と。次第にそれがエスカレートし、より変わったこと、より異常なことをやらなければならない気持ちに追い込まれていくのです。
こういうのを私は「カラオケ現象」と呼んでいます。エコーを効かせて、低い能力を高く見せたい、みんな俺に拍手喝釆を…というわけです。そうした行動の行き着いた先が、あの児童連続殺傷事件だったわけです。
だから、彼は精神病でも何でもありません。本当は、「幼児のままで人格ができあがっていない」と言うべきです。ちなみに、小学生の首を切って校門のところに置いた行動が残虐だと人は言いますが、いまの子どもたちにしてみれば、生まれたときから肉食で育っているから、われわれ大人が考えるほどには抵抗がないという一面もあると思います。動物の肉の切りロや血が滴っている光景も、彼らにしてみれば見慣れたものなのです。たまたま、首を切ったという程度に考えたほうがいい。
われわれ中一局年の世代が魚の頭を落とす光景を見ても何ともないのに似ています。家庭裁判所は精神医学的な治療が必要とし、医療少年院送致とする保護処分を言い渡しましたが、あれは妥協の産物と言うべきです。
少年について、責任能力の点では心神喪失や心神耗弱に当たらぬといいながら、精神医学的な治療が必要という判断を下したのです。
完全な精神病患者と認定してしまうわけにもいかないが、普通の少年院に収容して2年で世の中に復帰では世間が許さない。ある程度、長く入れておけるところがいいということで、病気ではないのに医療少年院に入れるという矛盾が出てしまったのです。 しかも、精神医学的な治療を受けるいう。これは、すでに触れたとおり、好ましくありません。
精神科医は薬を用いるからです。脳の機能が低下した人間が、その薬で人為的に本当の精神分裂症になってしまうことがあるというのは、前述したとおりです。薬とカウンセリングで治すと言っているが、そんなことでは治らない。薬とカウンセリングで「酒鬼薔薇」君が治るくらいなら、登校拒否の少年でも何でもみんな治っているはずではないですか。「問題児」とその家族を指導するカウンセラーというものの責任を、マスコミはもっときちんと追及すべきです。
家庭内暴力の長男を父親が殺害した「金属バット殺人事件」(1996年11月、東京・文京区)も、報道によって広く知られているとおり、父親がカウンセラーの言ったとおりに対処して、ああいう結末を招いたものです。そのカウンセラーの罪、責任というものを、誰も問わないのはどうしたことでしょう。
われわれ現場で子どもたちと接している者に言わせれぱ、薬やカウンセリングでは直らない。問題は、既に指摘したように、幼児性にあるからです。
本人みずからを、ちゃんと成長させなければならない。
人間が成長するのに、行動抜きということはありえないのです。それなりの、しっかりした行動が必要。人間性を高めなければならないのですから。
いまのままでは、「酒鬼薔薇」君はますます社会から隔離され、大人に成り損なうだけです。しかも、医療少年院では個室に収容されているという。個室で人間が成長できるわけがない。うちのスクール、あるいは同じような教育・訓練をしているところに、入れるべきだったのです。
みんなと一緒になって行動し、自分の駄目さを突きつけられ、みずから成長していくことこそが、彼には何よりも必要だからです。
カウンセリングによって治そうという考えの、そもそもの間違いは、その根本にキリス卜教的な考えがある点です。つまり、人間にはもともと「理性」が備わっているという考え。
「理性天動説」です。
しかし、そうではない。
理性は、「創るもの」なのです。
最初から「あるもの」ではない。
その証拠に、赤ん坊に理性はありません。
順々に創り上げていくのです。
だから「酒鬼薔薇」君も、医療少年院で治療を受け、個室に閉じ込められているかぎり、いまある以上のレべルにはけっして成長しないでしょう。
「体罰」を復活させるべきだ
いまの教育は、生徒を褒めなければいかん、叱ってはいかん、ましてや殴ってはいかん、というもの。それでいて、なおかつ成果を上げろという。それは無理です。
いまの学校には、とても勉強できる状態ではないところが多すぎます。生徒たちは、あちこちで勝手にガヤガヤ喋っている。先生も最初は注意するが、誰も言うことをきかないから、諦めて生徒の背中に向かって授業をしている。そんななかで人間性が育つはずがないのです。
教室のこの現状は、戦後の民主主義教育およびマスコミが作り上げたものです。生徒の自主性だ、自由の尊重だと唱(うた)い上げてきた結果。そのうえ、騒いだり非行を繰り返す生徒を殴ったら、「殴った先生が悪い」の大合唱。これでは、先生の側に、もう「手」がありません。
この惨状を直すのに、とりあえず一番必要なのは、「体罰を復活させる」ことです。体罰が復活すれば、少なくとも、大半の生徒が先生の言うことをきくようになります。しかも、生徒は「先生が真剣に自分たちを成長させようとしてくれている」と感じ取ることができます。大人が義務を果たそうとしていることを感じて、生徒が安心する。さらに、先生は強いという気持ちが湧く。
体罰を受けたときに、逆らってもかなわなかった体験から、そう実感するのです。そのことによって、安心して身を守ってもらおうという気になるのです。 体罰の復活ひとつで、これだけのことができるのです。体罰は暴行ではありません。教育です。
体罰を加える側には何の利益もないのに、体罰を加える。しかも本能的に。それは、生徒のためにやっているということです。体罰を受けた生徒は、体罰という「不快」から逃れるための行動を取るようになる。それが進歩に繋がるのです。
他方、暴行というのは、自分の利益のためにやること。金を脅し取ろうとか、女をものにしようとか、自分の名誉を守ろうとか。体罰と暴行の姿かたちが似ているからといって、ごちゃ混ぜにしてはいけません。マスコミは、体罰教師に対して、「カッとなってやったに決まっている。けしからん」のオンパレード。しかし、彼らは、止むにやまれずにやっているのです。
体罰をやる先生は、みな真面目な人ばかりです。真剣に、子どもを何とかしようとしているのです。
一方、事なかれ主義、自分の家庭第一で、そこから逃げて知らん顔している先生ほど、その後ろめたさから「体罰をやる者はけしからん」と言うのです。では、「酒鬼薔薇」君を筆頭に、戦後民主主義教育が作りだした"問題児"たちを直すには、どうしたらいいのか。 私に任せなさい。簡単なことです。
といっても、日本全国の子どもがみんな私のスクールに来るわけにもいかないでしょう。しかし、私は、普通の学校で、いまの先生たちがこの問題を解決するための方法を開発しました。実験も済んでいます。
教育というのは、普遍性がなければなりません。特殊な人間が、名人芸で、ごく一部の場所でやっても意味がないのです。私の唱える方法は、どこでもやれることです。いまの先生を罵倒しても駄目、親たちを非難しても駄目。現在の日本の教育にとって、この人たちが「持ち駒」なのですから、その「持ち駒」を有効に利用して解決する方法です。どこの学校でも実践できるシステムです。
しかし、どんな方法かと問われても、私は現在は答えるつもりはありません。なぜなら、この国は、私に対して有罪判決を下しているからです(いわゆる「戸塚ヨットスクール事件」で有罪判決を下した)。然るべき人が頭を下げて来たら教えてあげないこともありませんが。
ヒントだけを述べておきましょう。人間性の復活を図ることです。
何も難しいことではありません。本能を完壁に養った状態を指して、人間性が完成したというのです。
人間は本能として、罪の意識を持っています。悪いことをしたり、しようとすると罪の意識にかられます。たとえば弱い者に危害を加えようとする自分の行動には不快感を感じます。快を求め不快を避けるという行動原理が根底に、本能としてあるからです。だからその本能を養い、強くしてやれば、悪いことはしなくなります。いや、できなくなるのです。
本能を強くするのは、うちのスクールでやっていることです。脳のなかの脳幹部と、その上の辺縁系をトレーニングするのです。
私が考えたのと同じことを、なんと孟子が言っていました。 「浩然之気を養う」です。どうしたら「勇」を養えるかという話のなかで、孟子は、義を行ない、正しい行動を繰り返し行なえばそれができると言っています。
うちのスクールでやっているヨットやウィンドサーフィンを利用しての訓練は、まさにこれです。死ぬ気になって正しい行動を繰り返しています。それが「浩然之気」を養うことに繋がるというのですが、「浩然之気」は、私の言う本能に当たります。 このときに守らなければならないことが二つある、と孟子は言っています。
まず、一つの目的を大人の側が作って、それに子どもを合わせようとしてはいかんと。
大事なのは人間としての基礎、人間性を養うことであり、細かい目標を設定してはいかんというのです。「苗の伸びが悪いな」と人間が手で引っ張ったら、むしろ苗が枯れてしまう。これが「助長」ということ。そんなことをしては、いかんというのです。
二つ目は「心忘るるなかれ」。これは、周辺の雑草をぬいてやらなくてはいかんと解釈すればいい。
ゲームやオートバイなど子どもが夢中になってしまうようなものは、成長の邪魔になるから与えるなということです。
その二つを守って、あとは子どもに任しておけば、子どもが自分でちゃんと成長するということです。
繰り返していいますが「酒鬼薔薇」君やナイフ少年も、けっして特殊な少年ではありません。それは戦後の教育が生み出したものです。しかし、それを直すことは可能です。
そのことを、われわれは、いま、もう一度しっかり見つめ直すべきです。
(月刊「宝石」1998年4月号より)